気づくことと知ること
何かができるようになること
いま自分にはできない何かをできるようになろうとするとき、どうするか。
そのできないことを「する」という形でしかできるようにならない。たとえば、逆上がりができるようなるためには、逆上がりをしなければならない。もちろん失敗はするがやがてできるようになる。(アリストテレス/ニコマコス倫理学)
それとは少しちがうが、似たこと。
気づくと知る
何かを気づくためには、気づく前にそれを知っていなければならない。
知っていたのに、気づいていなかったことがある、というのが気づくための条件である。
あらかじめまったく何も知らなかったら、何も気づくことはできない。
それが気づくという行為の成立与件である。
これは残念なことではあるが、おおよそ正しい。
それでは、生まれたときに何も知らない赤ちゃんは永遠に何もわからないかというと、もちろんそんなわけはない。それは、知ることと気づくことが同じではないから。
知ることは不思議だ。
少なくとも2つの「知る」がある。意識的に、意識の内側の「活動」として知るということと、意識の外側でそれとなく気づかずに知るということ。これらを、どう言い分けようか? それぞれに名前はあるのか?
そして重要なのは、意識の外で知る/知っている、ということ。
私たちは毎日毎日、直接に間接にとても多くの「体験」をしている。
意識的にも無意識的にも、莫大な情報が私の上に降ってくる。
意識的にせよ無意識的にせよもちろんそれらの情報をすべてとっておくことはできない。
けれど、無意識的に(前意識的に?)かなりの情報量/知識を貯め込んでいると自分は感じるし、ほんとうにそうなのだと思う。どれくらいの比率かはわからないが。
でも多くの人はほとんどこのことに気づいていないようにみえる。
おそらくこのあたりはのことは誰かがまとめていることだろうけど、自分は寡聞にして知らない。
この、「自分が自分の意識が考えるより多くの情報を取り込んで意識の裏で貯えている」という事実があることを、最近つよく感じるようになった。最近になって貯え始めたという意味ではなく、はじめから貯えていたのに、そのことに無頓着だった自分に気づいてしまったのである。
そしてその無意識の知識の存在を、意識が改めて知るということが、「気づく」ときに起きていることだ。
学生
教えている学生によって、教師たる自分が教えられたこと、といってもいい。
学生達は(大人も同じだが)、知っているはずのことを意識の元に捉え直すこと(=気づくこと)が、下手である。
学生に教わったことを、その学生に返したいとつよく思う。
それが自分が教えることの意義かも知れない。
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